(2004/04/25時点)

近況  

 自分でいろいろ試験や実験をしていると、「この条件下・方法で、何か造った時にはこのような傾向がある。」と経験的に感じることがあるのですが、分析機器等が極端に貧弱なため客観的なデータを集めて明確な根拠を示せないことが非常に多くある。
 そして、自分では「そのような傾向は間違いなくある。」と思っていても、実は自分が半ば無意識的になんらかの結果・成果を出したいという焦りや願望があって、そう思いこんでしまっている危険もあるし、実験条件のコントロールが出来ていない場合もある。
 そんなことが無いように、実験環境や機器はなるべくいいものは欲しいんだけど、データのモニターができないものばかり。実験研究機器というより試作機器しか無い。

傾向を見つけたり成果を出すことより、データに基づいた客観的証明や安全性を確認するほうにより多く時間やお金がかかるということがある。

何か作ってみて、健康によい、効果があるとかおいしいということがあるけど、それらが安全だとか、何故効果があるのか証明するのは厳しいよ。
・医薬品が一番顕著な例である。
実験動物を用いた前臨床試験で効果が認められても、ヒトへの臨床試験では有効性や安全性が確認できないことが多々ある。おそらく逆もあるだろう。
・また、食品等(酒、みそ、醤油、料理)でも、このようにすれば、おいしくできると経験的にわかっていても、何故おいしくできるのか十分な説明ができないばかりである。しかも味覚自体個人差があってどうしようもない。

低脳な私にはあまり関係ないのですが、未知の分野に切り込んでいく人達はそういうことを痛切に感じているのではなかろうか?

超常現象を何とか解明しようと切り込んでいく人々は多々いるが、いつのまにか勝手な熱を吹いているだけで事実上行き詰まっているケースが目立つ。
仮定の上に仮定、仮定の上に妄想、妄想の上に仮定、妄想の上に妄想を積み重ねているだけ。とにかく、今までとは全く異なった新しい視点とか、解析方法が見いだされないと、ブレークスルー(BREAK THROUGH)は決して無いと思う。新しい指標の発見でもいい。

ただ信じている人だけが集って、期待と空想で熱気をみなぎらせているだけの雰囲気を感じる。

未知あるいは困難なテーマに立ち向かったり取り組んだりする際、そこでなされる行動や探求には、多くの場合、(ある種の)情熱は必要不可欠なのだろうが、期待や夢が昂進し過ぎて止まないのかどうか知らないけど、何の根拠を示さず(審査等を経てきている論文や学術雑誌ではなく、単にどこかの書籍に書いてあったというのはどうかな。。。)、期待や願望、酷いときは物語をあたかも真理・真実のごとく熱を吹きまくる(熱く語り過ぎる)だけに終始しているのは、その場が単に趣味や同好の集まりならいいのだが、不特定多数の人々を相手とする商売する動きが感じられる等、外部になんらかの影響を与えようとするものであれば、これは誠に残念なことだ。

ますます信じたい人ばかりが集まってしまい、そのような人々ばかりで会話したり論議したりしていると、あたかも検証された訳でもない単なる個人的意見や願望が熱病に冒されたかのように、真理として受け取られたり語られたりして、世間一般と隔絶してしまう危険がある。

あまりに不用意に肯定的で、根拠が乏しいか不確定なことに信任を与えすぎる。。。

確かに熱く語った内容の中には、実際に起こったことや実感できたことがあるかもしれない。
しかし、いきなり「私が体験したことや実感したことを、君にも理解せよ!!」と言われてもできない相談だよ。他人の感覚器や記憶も私が共有できる肉体(というかそれのみならず自然界の)システムになっている訳ではないから。

共通認識できる信頼性の高いデータが必要なんだよ。
それは、場所や時(環境による変動要因もあり、それらをコントロールする設備も必要だろうが、そのコントロールができないならば、場所は移動しなくていい)を変更しても、同様の手続きをとれば再現できるもので無いといけないんだ。(再現性)

「私の存在こそが、超常現象を起こす力の源泉であり、認識できる検出器である。」というのなら、「ああ。そうですか。」というしかない。その人が信じられる人だけそれを認めることができる。

わからないことについて議論が成り立つはずがない。
せめて、すごく画期的な効果をみせてもらいたいものだ。。。そうすれば、妄信的でなく「私だけは信じてあげる」という人は増えてくるだろう。

(執筆 04/04/25 加筆04/04/30 推敲04/05/01)