(2007/04/01時点)う、あっちいけよ!朝鮮 

 政治的闘争とか論争というのは非常にうっとうしいし疲れるものだ。穏やかな性格のかわいいおねぇちゃんと遊ぶとか、ひとりでぼんやりたたずんでいる方が楽しいし、落ち着いて過ごせる。

政治とか思想というのは面倒でやっかいなものだ。
自分1人で衣食住を中心に何でも自給自足できて、親近感を感じる必要最小限度の人達だけを相手にし、そして趣味の世界に没頭できるならそういう生活をしてみたい。

日本人はそう考える人は結構いるのではないかな。
他者との軋轢を避ける為、理不尽と考える非難に対しても反論せずにやり過ごす。
しかし、そのような行為ゆえに本当に容認できない深刻な状況を引き起こすと、初めて攻撃に転じて、当初のふるまい(やり過ごすこと)からは他者には想像もできない過激な行為に出る。

つまり、どういうことを言いたいか、それは
@根本的に考えの異なる人達との関わり方を知らない
A経験する内にわかるようになっても、なかなか適応できない
B深刻な事態に陥って初めて本格的行動を起こすが、それらは"堪忍袋を切った"とか"止めようも無い直線的"妥協無き過激な行為である。

教育すべきことが足りないのでは無かろうか?

ここから、少し話は外れます。
国は学校教育の中で「道徳」を科目にして成績をつける方針だそうだが、評価の基準をどうするのか、何が良くて何がいけないことを明確にできるのか、教師が評価できるのか、という多くの深刻な問題が横たわっているが、最も致命的な問題は「思想の自由」を侵す危険があるということだ。

私は基本的に「子供には人権は無い。」と考えている。
それは人権を他者から保証してもらう為には、他者・社会に対して相応の義務を果たさなければならないが子供にはその能力が無いもくしは未熟だからである。
しかしながら、適度の教育を受けて心身の成長が有れば義務を果たす能力が備わってくる可能性があり、第一、人間は最初から大人としてこの世に産まれてくる訳にはいかないので、それら能力を身につける猶予期間に子供に人権を保証すべきと考えている。
いくら教育してもダメな人はいます。
あまりに取り返しが着かない損害を与えた場合は、子供であっても相応の罰、人権の規制は必須だろう。子供だから免責されるというのでは、被害者の人権が守られないし、第一教育効果も損なわれることだろう。実際に「子供のうちに欲望を満たしておこう。」と考えて悪事を積極的に行う輩も現れている。
悪人正機説(「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」:文字通り解釈すれば、悪人こそ救われるという破戒の論理である。「本当の意味は異なる」「実は深遠な意味が隠れている」と言われましても、人々に膾炙されている上記キャッチフレーズがこれでは、積極的に悪事を勧めていると解釈されても仕方ないだろう。)の亜流みたいな、子供更正の大義が蔓延っている。

人権も何人も奪われることのない基本的人権(もっと真剣に考えたらそんなものがあるのか私は懐疑的ではあるが)+人生において獲得する国家的・社会的人権(善良な市民なら普通に与えられる人権)の二層構造にすれば良いと思う。

子供達は社会性を身につける為に、その猶予期間中にさまざまな失敗を繰り返すだろう。
高慢・傲慢になる → 他者の反感を買う
迷惑行為・犯罪を犯す → 不利益な扱いや非難を浴びる

それはそれで仕方ないことである。

だが、犯罪行為は別にして、「善行を行わない」「高慢さ、傲慢さがある」「憐憫の情を持たない」「友好的行為をしない」などの理由で成績をつけることが可能なのか、成績をつける資格が教師にあるのか、大いに疑問があり、それどころか大きな憤りを感じざるを得ない。

学生時代の経験で、良い先生、あたりさわりのない先生もいたが、今でもぶん殴ってやりたい先生がいる私には本当に成果が出るのか懐疑的である。

商品の評価は市場に任せるがごとく、人間の評価も社会に任せろ、と言いたい。
学校内においても、教師とか学生だけの世界にせず、社会の介入をもっと受けるべきだろう。
ここは詳細に書けば長くなるので簡単に触れるだけに。今回の中心課題ではないので。

戦前・戦中の教育勅語のようなものを復活させるべき、という意見もあるが、あれは神格化された光輝くような天皇の存在があったからこそ可能だった。天皇とかGOD、ARAHに代わるような存在や対象が今の日本に用意できるだろうか?無ければ、一部の子供達、そして親達にも「かったるいことやらせるな」と言われるだけだろう。

(今日はここまで 07/04/01 書き出すと意外に難しい問題だとがわかった。)

(執筆 07/04/01)