偏狭な動物愛好家とか平和教信者的平和運動家 |
動物愛好家は動物を慈しみ動物実験や動物虐待に対して抗議・反対する。 平和運動家は恒久平和を希求し、平和を脅かすものに嫌悪感を持ち抗議・反対する。 上記の定義でいいよね。 私は動物愛護に関しては大賛成。虐待は論外でいいだろうし殺さずにすむなら殺さないほうが良い。動物実験はしなくてすむならそのほうが精神的にも実験手続き上やヒトへの外挿を考えなくてはならない手間を考慮しても、そうするほうが良い。 動物実験代替法も世界中の研究者の努力と英知で進歩してきている。しかし、すぐには全面的には置き換えられない試験も多い。研究の内容によっては苦痛の与え方がかなり異なるようで、私は極度に残酷な動物実験をあまり見ていないかもしれない。 非常に反感を覚えるのは、動物愛好家の中には、本人達の「話し合いに来ました」等の言い分とは関係なく、実態や行動としては対話でなく一方的な抗議に来る人もいるということ。 "共に考えて少しずつでも改善していきましょう"という姿勢なら当方としても異存は無いので、感情的軋轢などおこるはずもなかったのだが、ただ殺すなというだけで、当方の話を聞かず事情を考慮しない人もいる。そういう人を私は偏狭な動物愛好家と定義しているのである。 そこまでいうなら動物の犠牲の元になりたっている医薬品・化粧品・食品を用いるのはそれくらい熱意にあふれた信条に反するのではないか、と言いたいわけ。 加えて、動物は殺してはだめで魚貝類とか植物は殺していいのか(植物にも感情があるのでは、という研究結果も見たことありますし)とか、犬猫や小鳥・イルカ等比較的愛らしい動物はダメで牛・豚・食用鶏には宗教的信条から来る反対は別にして動物愛護者の保護発言はほとんど聞かれないのはどうしたことだろうか?と思う。 牛が屠殺場に連れて行かれようとするところで「モゥー」と(私の主観かもしれませんが)悲しげな声をあげている場面を見て、彼らにはなぜ犬猫などの愛玩動物を慈しんでくれるような愛護者、例えば「肉食はやめましょう」などと、(少なくとも私の周りで)牛・豚・鳥のために言ってくれるはいないのだろうか、と一瞬思った。健康面から「肉食はやめましょう」と提唱する人はたくさんいたけれど。(実は高齢者ほど動物性蛋白の摂取が必要だ、という論を提唱したものを見たこともあるけど) もちろん、私は肉食を止める気は無いので、動物実験とは違ってそういうことを言う人が来たとしても真っ向から反対いたしますが。 平和教信者的平和運動家がなぜ並列で書かれているか?というと、以下書き殴っていく。自衛隊や米軍基地で基地周囲を取り囲んで「平和」「命(ぬち)どぅ宝」とデモしたり、平和リレーとか自衛隊員に直接「戦争に荷担するのか」と食ってかかる人がいるけど、デモンストレーションとはっきりと自覚しているのならいいんだけど、直接隊員に食ってかかるのはどうかしていると思うよ。 彼らは命令で動いているのだから、立場上ほとんどどうしようもない。 好戦的で人殺しが好きな人ももしかしたらいるかもしれないが、彼らだって戦争行為したくないかもしれないのじゃない。無責任にも「そんな派遣命令が出ても無視しろ」という平和運動家・市民団体構成員もいると聞いたが、彼らが失職したらどうなるのか?生活の責任をとれるのか?と思う。 文句あるなら命令を出した政府にいうべきだろう。命令系統では、末端の隊員に言っても仕方なかろう。 本当はもっと書かなくてはならないことを端折ってしまうが、戦争を防ぐには、戦争に替わる紛争・国家的利害解消システムを構築しなくてはならない。これこそ代替法が必要。 国家的利害自体を発生させないというルートもあるかもしれないが、低能な私では何のアイデアも浮かびあがってこない。 代替法はなかなか出せないけれど、そんな手間暇をかけたり深く物事を考えることが嫌なのかどうか知らんが、ただわめきちらし、一番矢面に立っている人のせいだと言わんばかりに一方的に非難する人はこのように並列にして語りたいものだ。 |