B-WATTY暴言コーナー
 本来、健康追求というテーマで馬鹿話を書き綴っていくつもりで、HP作成の練習でもしてみようとして始めたサイトであったのだが、まあひどい奴ら(組織、個人)がうようよ、わんさわんさといて、たまには政治のあり方やおかしな組織運営について一言言いたくなる衝動が抑えきれない。
個人レベルで健康に気遣っていても、まったく徒労に終わるということを思い知らされてしまった。
 有識者が指摘したり、行政の最前線で奮闘し貴重な体験を蓄えられている人達がおっしゃられるとおり、「行政が何歩も先を行く」というのはシステム上、ほとんど不可能、というか不可能である。
本来、先見の目をもって政策を考えるのは立法府の、政治家の仕事なのであるが、彼らは支持団体の意向に縛られて、票を集めることのできる人だけに有利になる政策しかとれない。
政治が良くならないのは当然といえば当然だと思う。

司法において、凶悪犯罪者に厳刑が与えられないのは、確かにおかしな考えを持つ裁判官のせいもあるが、立法の怠慢もある。法が現在の社会にそぐわなくなれば、さっさと法律を変えたらよかろう。

途中、書くことに行き詰まって長らく放置していたが、先に天皇制について書いてみる。(04/05/15)

皇太子さまが、皇太子妃さまの病気について、「人格を否定する動きがあった。」などという発言をなされて、主に宮内庁内に波紋を巻き起こしているらしいが「皇太子さまも人間なんだなぁ。」という街の意見の映像がテレビで流れていた。

確かに皇太子さまも人間だし、皇太子妃さまも人間であろう。(実際に私が調べた訳でもないが)

最近、憲法改正論議が、特に9条について沸騰しているが、天皇についてはどういう位置付けにするつもりなのだろうか。しかし、基本的人権(第11条)にしても、義務教育の無償(第26条)についても全然憲法が守られていない状態なのに、9条だけ騒いでいる状況は笑ってしまう。地方自治も国の干渉を受けまくりという感じで十分に機能しているとは言い難いのではないか。

9条の「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」というのは、そのままという意見もあるが、ここ最近の国際情勢を鑑みたらこれも改正すべきだと思うね。
この点については詳しいことは後日記載。
ちとだけ書いておく。
戦争なんてしない方が良いに決まっている。戦力差が圧倒的に有利でない限り、戦争は双方に多大な被害を及ぼすだけ。戦争しないなら、卓越した軍事力を自由に行使できる国よりはるかに外交能力が求められる。しかし、今の日本にそんな外交力があると思います?
紛争解決の手段として軍事力は行使できず、外交能力はお寒いかぎり。。。
単なる感情的な動機で始まる喧嘩みたいな戦争もあるが、近代戦争は国の総力を注ぐ一大事業だからそんなに簡単に始まらない。戦争しなくて要求が満たされるならそれで良いに決まっている。それは工作でも恐喝でも経済封鎖でも良い。
話し合い?戦争が副作用も強烈で使用に際して注意を要する薬を併用しながらする外科手術ならば、対話なんて問診みたいなものじゃないの?
戦争するより、もっといい紛争解決の方法があればいいんだけどね。
何のアイデアも浮かばないね。。。。

今の状況なら、核兵器を所有するなどいざとなったら軍事力も行使できますよ、という威嚇できるようにするべきだと思うが、それを最も邪魔しているのはアメリカなのかもしれないな。

ここで、素朴な疑問があるんだけど、誰も言ってくれないので(長いこと待っていたのだが・・・)私がここで書くが、天皇というのは、いったい何の象徴なんでしょうか?
憲法第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
上記のとおり、国民統合の象徴と書いてあるのですが、もう少し詳しく教えていただきたい。そうでないと、どういう国造りを目指しているのか明確にならないと思うんだよね。
上記については、SAPIO '04 6/23号(小学館)で高名な先生方が執筆してくださったSPECIAL REPORTを見たので、有る程度は納得した。
(04/06/12)

後、以下の文章は門外漢がろくな知識も無いのに素朴な疑問を交えて書き綴っていく文章である。"電波文章"と言われても一向に構わないが、できるだけ意志疎通・伝達が可能な一般的語彙を用いて書いていく。前もって断っておく。現在、自分のくだらん仕事用の論文(発表する訳でもないし、到底どうしようもないデータを元に体裁を整えただけのもの。本当は書きたくない。"書け"というから書いている)を書いていて、それが嫌になったときに気分転換に書いている。

日本が明治以降、近代国家を目指すために、それら近代国家がおしなべてキリスト教国であったのだが、近代国家を造るための精神的バックボーンには、キリストの神に代わりになるものを見つけるか置かなくてはならないことに気づいた、ということは私がいろいろな書籍等で読んで知っていることなんだけど、今や、天皇は人間宣言をして神ではない。
これくらいは、社会科学の専門家でない私でも知っている。

元々、天皇の権威は存在していたのだが、キリスト教の神の代用にする明治時代の偉人の慧眼(観察力・判断力など)や決断力には感服するのだが、せっかく築き上げた疑似キリスト教的天皇制共同体は敗戦によって崩壊してしまい、とりあえず、精神的には、その残滓の上にかろうじて国が乗っかっている感じである。

この天皇制共同体でも以下の欠点は解消できなかったと私は見ている。
1.国家的集団責任=無責任(国民は天皇のために邁進しているのに、天皇は何の責任も無い。但し、戦争責任は天皇の責任でない。開戦は国民が決めた。大陸進出は挑発されたのかもしれないが軍部の暴走らしいし。)
2.キリスト教の神は現世にいないのに、天皇は現世にいた現人神だった。
神は誤謬を犯さない、というか宿命上犯してはならないのに、現人神では誤謬を犯す危険がある。
誤謬を犯し続けているのに、隠蔽して取り繕ってばかりいたら、北朝鮮のようになる。
3.セクショナリズムを解消できなかった。
陸軍と海軍では内部でしか通用しない言葉がカルト集団みたいに多くあった。今でも派閥主義とか官僚のセクショナリズムが国家に悪影響を与えている。
4.因果応報説と予定説(いい書き方が思いつかないのでこうした)
日露戦争も薄氷の勝利で、ギリギリきわどい戦いをものにしてきていたのに、ちょっと良い結果が続くと、おちょこちょいなことに、人間の分際で勝手に「神風が吹いて日本が勝つ」などと神話にしてしまう。(バブルの時の株価神話、土地神話みたい。。)
サッカーの試合でどこかのテレビ局が放送した時だけ負けないという、「なんとかテレビ不敗神話」ぐらいならほほえましくてかわいいものだが(^^;;)
日本人は因果応報説が深層心理で信じられているという著名な研究者の著作に書いてあったが、
、これは何か予定説的考え(日本は神の国だから神風が吹いて守られる)のような気がする。
どんなに間違った方法をとっても、結局は神に救われるという考えは最も楽天的な思考だろう。そんなことだから、戦争に負けたのだと思うが。。。

宗教研究者の話では、予定説のほうが人間にとって本当は厳しいらしい。どうしてか?というと、神の御心は人間ごときでは理解できないので、人間にとって善行と思っても神の意向に沿っているとは限らないし、全能の神は人間の救われようと偽善を行う人間の浅ましい心をとっくの昔にお見通しなのだ。それで人間は必死に神の御心はどういうものであるか考えなくてはならない切迫感があるということらしい。
こういう考え方がキリスト教国が近代科学文明を育たたせるのに貢献したのかもしれないな。
人間の常識で自然を見ず、謙虚に接してデータを積み重ねて熟考して隠された自然の法則を見つけ出す、ということにつながっているのではないだろうか。人間の権威や常識など通用しないということが。(ここの部分はあくまで私見ね)

ここで奇異に思うのだが、予定説というのは、「神に救われる人間とそうでない人間は既に決まっている」というものらしいが、それならば、運命はもう定まっていてどういう生き方をしても同じことだから好き勝手に生きよう、という発想になると思うのだが、これは何故上記の様な切迫感を予定説を信ずる人間に引き起こすのであろうか?

高校生でも世界史や倫理社会を得意とする優秀な学生とか文科系の学生ならご存じだと思うが、これはカルヴァン派の教義を突き詰めていくとこういう考え方になるらしい。
ここは書いていくと非常に長くなるし、私も別に専門の研究者でないので割愛していく。興味ある人はネット検索で「予定説」「カルヴァン」等で自分で調べられたい。
信者の心に発生するのは切迫感というよりは、神の御心を常に考えている熱烈な信仰心ということなんだろう。

運命は既に決まっていると言っても、ただ人生ぼけーっとしていたって何も良くなってこない。
旧約聖書では、ユダヤ人が神との契約を破ったばっかりに、苦難の歴史を持つようになったことが何度も繰り返し語られている。

以前、読売新聞の朝刊にイスラム教国においても近代化は可能である、という意見を述べていた人がいたが、現時点では無理だと断言する。

(放置したままだった(^^;;)ので追記 2006.11.4)
どんなコラムだったか、今となってはすっかり忘れてしまったが(2006.11.4)、特に論拠は無く単なる願望のような気がした。

当然、これは思想的な問題が根幹に有り、技術等は国際的協力や移転を、オイル等の資源とバーターで獲得してとりあえず先進国に追いつき、追い越せば良い。
しかし、語るだけならたやすいが、実行は困難もしくは不可能と思われる。

近代技術の開発・維持、それらを用いた施設運営には、文字どおり「社会の近代化」が欠かせず、特に契約の厳守・約束の履行が絶対に欠かせない。

ところが、イスラム教徒の人々はしばしば、約束の時間に遅れたり、契約を誠実に履行しなかった場合でも、すぐに「神の御心のままに」で済ませて、自分の努力不足や怠慢を、アラー(イスラム教の神)のせいにしているように見える。
私に言わせると近代技術は、言うならば究極神(イスラムの神と同一かどうかそれは知らないし、あくまでも"世界創造の源"という捉え方を私はしている)の設けた世界の法則が複雑に絡み合い相互連関している中から、人間の力でできるだけ抽出・解明したものを高度に運営するものだから
能力的にはその究極神には到底及ばないけれども、億分の一・兆分の一・・・・・無量大数(1068)分の一しか無くても運用に関しては"絶対"を期するべきだろう。

それを最初から放棄しているようでは、近代化は不可能ではなかろうか?

キリスト教が近代化を可能にしたのは、他の理由もあろうが根幹はここにある。
イスラム教 「神の御心のままに」 アラーに人間は絶対に近づけないし、神のふるまいを真似する情熱が湧かないのでは?
キリスト教 「神の手足となって」 これも人間が神になることはできないが、手足となって他人に奉仕するためには、能力的には取るに足らない力しか無くても、運用する場合は神がなされるように、約束を守るよう尽力しなくてはならない。

さて、日本だが、聖職者のような地位におかれるならば、皇太子妃はこれからも不自由な生活を余儀なくされるのではなかろうか?
独裁者としてふるまえるなら良いけどねぇ。
(続きは後日 偶像崇拝、自らの信条と感情の矛盾に苦悶についても触れたい。なお予定は未定
それでは仕事に戻る。)

(04/05/15-20 かなり期間が空いて執筆復活 06/11/4)

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