文理闘争に思う
 ネット上いたるところの掲示板で、「日本は資源の無い国なのにここまでの経済大国に登り詰める事ができたのは、理系の研鑽によって築き上げられた技術力のおかげなのに、アホな文系の官僚や政治家、銀行の奴らが全て台無しにしている。」とか「優秀な文系の人間のマネージメントと海外への単身赴任を厭わない営業などのおかげでここまで来れたのであって、しこしこと研究室や開発室で物づくりしていただけでは、日本はここまでの国力をつけることはできなかった」とか議論が活発でなかなか楽しい。
 時にはなかなかするどい指摘や意外な視点からの説明もあり、とても参考になる。

さて、「文系」と「理系」と分かれて議論するのは適切なのでしょうか?
場合によっては、「実学」と「虚学」という分類をする人もおられましたが。。何が実学で何が虚学なのか判断する基準が私にはわからないので何ともいえない。

 学生は結構利口な人が多いのか、今現在どの分野、どの職業が厚遇されているか、待遇が良いのか?を知るなると、それは学生の進路状況を見れば一目瞭然であろう。彼らは利に聡いというか、生活の糧を得るための死活問題であるから、少しでも良い条件を求めていて、そのへんの事情が良くわかっているのだろう。
資格が取れて技術を身につけられる職業がもてはやされているようだ。

理系の人と文系の人の比較というのは結構難しいのだが、私の独断と偏見で言うと、理系出身の人は自分の思いだけではどうにもならないことを深く体感していると思う
具体的にはどういうことかというと、大自然の法則や大いなる流れには逆らえないということを痛感している度合いが文系出身の人より大きいような気がする。
自然法則に逆らって、科学反応させようとしたり、機械を動かそうと思っても、自然法則に沿わない不適切な方法であれば、試験管や研究所、ロケットは爆発したり、機械はあさっての方向へ動いたり、全く動作しなかったりする。

実験や観察によりデータを貯えて法則を導き出すことはできても、自分の欲求のままに法則を作り出すなんてことはできない。


ところが、文化系出身の方々は、どうもそのような痛感の度合が足りないような気がする。
特に挫折を知らず、エリートコースを順調に上がってきた官僚タイプの人は。
自分の権力や権威で、法律さえ作れば、人は思い通りに動くとさえ思っているのではと時たま疑うくらいである。
今まで過去の経験やデータを検討し、考え抜かれ蓄積された法則をまるっきり無視した政策をとっているような気がする。その法則を否定する根拠があるのか?と思いきや、実は何も無く、自分がそうしたい!!とか自分の人間関係のしがらみ(後々の人生の為か献金でももらっているのか知らないが)からこうしなくてはならないという思いしかなかったりする。

自然相手ならともかく、人間社会相手の政策なら、権力や権威でなんとかなると思っている。
台風の上陸は法律で禁止できないのはわかるけど、(後々面倒を見てくれる)大会社や大銀行の倒産は防げると思っている。
有る程度はなんとかなるのかもしれないが、経済政策みたいなものは、自然相手と変わらないと思うけどね。

銀行をつぶしたくないから、公定歩合を0近くにしたり公的資金とやらをジャンジャンぶち込んだりもする。
しかし、銀行は貸し剥がしばかりして、民衆は使える金が減ってしまうので投資や消費が減ってしまう。民衆の膨大な不安を押しとどめることはできないので、経済事情を悪化させてしまう。

景気回復させたいなら、国民全員に有り金全部使いまくらせばすぐに回復できるけど、そんなこと独裁者ですらできない。人々の内面まで踏み込むことはできないのだから(最近お騒がせの国はもっとひどい経済政策の失敗をしているようであるが・・・人間の心理を考慮に入れない統制経済政策の為)

まあ、国際的にも国内的にもさまざまなしがらみがあって、改革を的確に(経済理論で適切とされるプロセスに沿って)実施できないかもしれないが、拙い政策わざとやっているとしか見えないこともある。

どんなに優秀で才能あふるる人でも、どんな強い思いがあろうとも、抗うことのできない流れとか法則があるのではなかろうか。

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