WHY?SCIENCEの健康セミナーを聴講して(03/03/10)
本日はとある健康セミナーを聴講した。
整体師である講師の先生は技術的な事柄について語るのかな?と多少期待していたのだが、観念的なものに終始した。患者の心をみつめた医療・患者をモノとして見ないという自分としては聞き飽きた内容だったのはちと残念であるが、まだ導入部であるということで、現時点ではコメントし難い。
出来そうで出来ないことを、自分を客観視する・具体策をシュミレーションして最適な方法を模索・選び、法則として取り上げて活用するということらしい。
http://www.whi21.com/
関心がある方はご訪問を。私の立場は中立である(お勧めでも否定でもない。まだ全然わからないから
今回のセミナーは、主催者の方とのメールのやりとりでわかったことなのですが、本来は自分達の自主的な勉強会として開催する予定であったのを、せっかく借りた会場が広すぎたなどの理由のため、一人でも多くの人に何か得るものがあれば、ということで好意で多くの人々に開放・参加してもらう形になったのでした。
20代の頃に、世界でも治療法が無く過去の症例・検査データがかなり乏しい病気に罹られた女性が20年間弱、身体障害者として生きてきて、子育てをして、家族愛や自分を支え身近な人たちを支え、また自らを支えてくれる愛にきづく生き方について語られた体験談は、自分には想像することもできないが、何かしら自分にも得ることが大きく感じられた。

ビデオに収録していた訳でもなく全部は記憶していないのですが、自分が語りたい点のみを書いていくことにする。
その女性の話
●大学病院に入院なされた時の体験談では、主治医が一定期間で交代していくとのことだった。
・・・・・・珍しい症例は医者達にとっても貴重な経験なので、できるだけ関わりあいたいとのこと。
●病気に罹った時、自分の境遇をなかなか受け入れることができなかった。
・・・・・・なぜ、私がこんな病気にかかるのだろう。
●検査データの蓄積が無いので(症例が無いから当然だが)、自分で検査データをとってくださいと言われた
●大学病院では、先生も看護婦(現在は看護師というんだろうね)も親身になってくれたが、結局のところモノ扱いでしかなかった
●自分の体験を通して、多くの苦しんでいる人たちにも励みになって欲しいと長年考えてきたのだが、理解者がそばにいなかった
●「病は気から」という言葉が大嫌いである
●病気になったのはつらいことであったが、自分の生き方に気づいた。
私の考え
大学病院とはそういうものである。教授から助手の中には、一般社会にいたら変人の烙印を押されかねない人は意外に多く存在する。(これは医学部に限らないことである。研究者の中では、何かとてつもない勘違いをする傾向が強いような気がする。だから場合によっては、"高等遊民"と呼ばれたりするのだろう)医学部の教授を頂点するヒエラルキーは、他の学部にはあり得ないほどで、講座に配属された医局員は完全にコマ扱いである。トップが命を救うことに対して真摯で理解ある人ならいいんだけどね。大学病院は研究機関・研修機関の役目も担っているのである。

多くの医師などの医療スタッフは真面目で熱心な人達が圧倒的に多い
過酷な労働条件の下で良くやっていると思う。以前、病院で手術を受けた時、とある診療室のドアがちょっとだけ開いていたので覗いてみたら、研修医がイスにもたれて仮眠をとっていた。(と言えばかっこよく聞こえるが、居眠りしていた)そうとう、疲弊している様だった。

体が不自由になれば、今までできた活動も著しく制限されることになり(場合によっては肉体的苦痛、不安感から思考などの精神的活動も制限される)、その状態に応じた考え方・人生に対するとらえ方をしなければならなくなる。あきらめるものはあきらめなくてはならなくなる。また、他人の協力を仰がなくては生きていけない場合は、人との関わり合い方・その姿勢も改めなくてはならなくなるだろう。また、そうしていかなくては、結局つらくなるのは自分なのであるから。
葛藤や心境の変化を、話で聞いただけであるが、非常に得ることが大きかった。

「検査データは自分でとってください。」というのは呆れてしまうが、「私は匙(さじ)を投げました。」と言っているのに等しいだろう。治療法を求める際、その症例のデータを集めて把握するのは初歩であろう。まして貴重な症例なのだから、もっと患者に配慮して、言い方を考えて、自分が必要と思われるデータを積極的に求めるべきだと思う。
注意:ここは主催者とのメールのやりとりで、私が非難するようなことではなかったとのことだった

私も、以前とある調査研究の手伝いのそのまた手伝いをしたことがあるが、それはネズミを捕獲する罠を仕掛けるというものだった。その際、依頼した研究所の職員はいっさい立ち会わず、「適当な場所に仕掛けてくれ!!」と言ってきたらしい。
私は激怒し、「せめて、立ち会って、どのポイントにしかけるか把握すべきだろう。そんないい加減な態度で何が研究だ。俺が直接頼まれた立場だったら、こういう風に提言し、それでも現地に立ち会わなかったら即座に断るだろう。」と言った。まあ、このときは、本当の手伝いだったから手伝いだけはしてやったが・・・。
現地に出向かなければわからないことは結構あるというものだ。危険なところならいざ知らず、何も「戦場に来い。」と言っているのではないのだから。
データを集める段階でいい加減な態度では、みずほグループのジャンボ宝くじ1等賞に当選するほどの幸運でもないかぎり、ろくな成果は出ないだろう。

「病は気から」というけれど、気が原因でない病気もたくさんあります。
「病は気から来ることもあります」というのならわかるが。
では、私が腑に落ちない部分はどこか?以下抜粋すると。
「今日まで科学者は自然界を深く探求し、その現象を的確に捉えようと、それらの現象の背後に潜んでいる普遍的な法則を探求し続けてきました。●●(その団体の名称)は自然現象のみならず、人間世界や社会現象までを含めた客観的法則の発見を最大のテーマとして取り組んできました。」

この一文を読んで、私が抱いた感想は次の2点。
1.「科学者・探求者というものを甘くみていけない。日夜何かを求め続けている人がいる。」
2.脇目もふらず自分達の活動に一生懸命だったのかもしれないが、他の個人・団体の動向にも関心を払い、同様なことをしていないか調べるべき。」
科学者といえば、自然科学者しかイメージが湧かないのかもしれませんが、社会科学者・心理学者も当然存在する。社会科学者の存在について、まるで忘れられているかのごとく触れられていないのは、日本では世界的に知名度が高い人が少ないのか?宣伝が不足しているのか?その点については不明だが、彼らの存在がこのパンフレット中では全く無視されているのは気の毒に思う。
そもそも、自然科学でさえ客観的法則を発見し、追試験して確認し、通常人々が有している感覚の知覚レベルでわかるような客観的データを揃えるのは大変な作業である。社会科学は実験はしにくいし、そのような作業もよりいっそう困難なんだから、世間一般の人を納得させるのはもっと困難かも。


この考え方は、もしかしたら、宗教的・教条的に偏っているのでは、と誤解されるような気もする。
とにかく、もう少し、考えてみないとわかりませんが・・・・・。

(執筆 03/03/11 推敲・訂正 03/03/18 , 03/04/12)

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