いったい何の為だったのだろうか。。。(03/11/21)
 もう半年も前のことであっただろうか。それまで絶縁状態であった昔の同級生とばったり廊下で出会った。なぜ絶縁状態であったか、というと特に大喧嘩した訳でもなく、向こうが「昔の知り合いと会いたくない。だから、あまり話したくないんだ。」と向こうが言ってきたから、「わかった。その意志を尊重しようではないか。」と足かけ7年くらい、偶然会うことがあっても空気のように意識せず互いに素知らぬ顔をしてきたのであった。

ところが、その日は違った。雰囲気で何か私と話したそうだった。
彼が話しかけてきて、私はその雰囲気を察知していたので、自然と会話した。
将来の不安のこと。現在の心境。後、忘れてしまったがいろいろなことを話した。

今まで無視を決め込んできた相手や互いに毛嫌いしていた相手と、仲直りすることはいいことだと思う。何より精神状態や実際の生活が安定する。自分と仲の悪い人間がいたら、いろいろやりにくいし、下手をしたら第三者に迷惑がかかるではないか。周りの者の迷惑を考えず喧嘩をしかけてくる奴もいるんだからな。やるんだったら、場所を変えてやればいいではないか。

とにかく、仲直りすることにはやぶさかではない。

が、こう書いてしまうと変に聞こえるかもしれないが、その時思ったことを書こう。
同時に何かとてつもなく寂しい。。。
「おい。待ってくれよ。」と追いすがりたくもなった。

私は一生終わる時には、いい死に方をすれば、全ての恩讐を捨てていきたいと書いたことがある。だから、くどいようだけど、早いうちに仲直りすることはやはり良いことだと思う。
でも、私が嫌いな奴とかつきあいを絶っている人は、何かしら自分のこだわりがあって許せない、認められないものがあるから絶っている場合が多いのである。
その憎しみのエネルギーが自分の誇りや信条を支えている面もあるような気がする。
それが、時間が経過すれば解決してしまうのであれば、自分の信条・誇り、そこまではいかなくても、人生のこだわりというものが、実は自分の視野の狭さから出たものとか、今まで大切にしてきたものが実はとるに足らないものであったのか!?と感じてしまうのである。

昔、F1レースでアラン・プロストとアイルトン・セナが感情をむき出しにして争っていた光景を見て、ほんとに仲悪いんだな、と思っていたら、プロストが引退した後、セナが「親愛なるアラン。君がいなくて寂しいよ。」というメッセージを送ったことがあって、あれがライバルというものか、と思ったことがあった。

そういうこととはちと違う(大いに違うかもしれないが。ははは。)のだろうが、こだわってきたものがむなしくなる。もっともっとこだわって怒りでもいいから熱くありたいものであって欲しい。それくらい価値のあるものにこだわっていたい。

そういうことを思ったりもするのである。

まあ、時間が経ち、歳を重ねれば、ほんとうはとるに足らないものであったとわかってしまうんだけどね。それがなんとなく寂しい。

上手く表現できていないかもしれないが、なんとなく理解してもらえるのだろうか。。。

(03/11/21)

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