実は幻想や妄想は楽しい | ||
話は少し脱線いたしますが、先日、水質検査の現地調査をしてきました。 それらの近くに、寺院や仏殿等の宗教施設があり、ついでに眺めてきました。 壁に彫った仁王像や観音様の大きな姿に少し感動しました。 私は仏像などに興味が無くて全然知識がありませんが、これらの神様・仏様のイメージは、どこからやってくるのでしょうか? 彼らは神様や仏様を実際に見たのでしょうか?肉眼でなくとも夢の中に現れたのでしょうか?それとも、神様や仏様はこのようなお姿に違いないと自らの想像力で生み出したのでしょうか? そのようなことをいろいろ考えました。 よく、宗教の教義に忠実な人達は「偶像崇拝はいけない」とおっしゃられますが、具体的な姿という対象が明確でないと祈りを捧げるのが困難な人もいるのではないか、と思う。 自分の能力や想像力をもってしては、真に神様や仏様を認識したりイメージすることができない。けれども、できる限り神や仏の真の姿に迫ろうとした努力や熱意を私は認めたい。 とりあえず偶像は拝むけれども、それはあくまで自分の乏しい認識力や他のもっと優秀な人達(彫刻などの芸術的能力や宗教的な能力のある人)ですら真の姿を表現することはできない実体があると承知の上で、祈るのならそれで良いのではないか?とも思った。 どんなに素晴らしい芸術的な作品でも、それ自体が神様や仏様でないことは解っているだろう。ただ、それらを前に拝んでばかりいるとイメージが固定されてしまうことがいけないのかもな。「これが神様なんだ。」とか「仏様というのはこういうものなんだ。」と。 仏像や神像そのものは、仮に制作者が彼らの持つインスピレーションや心眼とやらで知覚できたのなら、彫刻の技巧的能力を除けば、その人の知覚能力が最大限の発揮された「限界」であるし、一生懸命に想像力を働かせて、「仏や神のお姿はこのようなものに違いない」と必死になって迫った結果、それもやはり彼らの想像力の「限界」であろう。 神や仏の実体というものがあるならば、それらの作品(仏像や神像)とは似ても似つかないかもしれない。中にはいいかげんな像を造って他人を騙そうという意図は無くても、制作者個人の願望なり妄想が入ってしまっているかもしれない。それはわからんなぁ。 それにしても、「限界」と言い捨ててしまうには、芸術的にはあまりにも素晴らしい証だ。 知りたいのに能力が無くて悶絶することは、私にも沢山あったからね。 それで、前ページで書いた「世の中全てが妄想」についてこういう言い方もできるかな、と思ったので書いておこう。
こういったことも含めていろいろ考えると夢が膨らむだろう。でも、大きな夢という風船を膨らませるには場所をわきまえるべきじゃないかね。
自分の想像力が現実に全て反映したら、「世の中おもしろいんだろうなぁ。」、「どんなにか良いだろうなぁ。」と思うのだが、細かいルールまで整合性が取れるように造るのは能力的に大変だろうね。。 漫画ですら連載続けていくうちに整合性取れなくなっている作品あるんだから。 そう考えると、究極神というものが存在して世界を創造しているならば、とてつもなく大した能力だと思うね。 (執筆:これで止めて良かろう 06/09/25-10/19 訂正・推敲含む) |
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